読むって、考えるって難しい〜ショウペンハウエル「読書について他二編」を読んでいる途中で思ったこと①

久しぶりに、じっくりインプットをしたいと思って、硬い本を読んでいます。

ショウペンハウエル「読書について 他二編」

ショウペンハウエルが何者か?という話はこの際ウィキペディアにお任せするとして、
肝心の本の中身を通して感じたことを書いてみたくなったので、
実はまだ読書は途中なのですがここにまとめます。

この本には「思索」「著作と文体」「読書について」という、
ショウペンハウエルの3つの文章が収められています。

読書は他人にものを考えてもらうことである。

という非常に有名な言葉の他に、

  • やたらと本を読み漁る人は次第に自分の頭で考える力を失っていく
  • したがって、読書をする時にも自分の頭で考えることを忘れてはいけない
  • 良書(ショウペンハウエルの考えではこれは「古典」ということになります)だけをしっかり読め

と言ったような読書に関する彼なりの考えがストレートに書かれています。

 

読書が知の源泉になることはほとんどの人にとって同意できるところでしょうが、
確かに最近は出版点数がどんどん増えてきていて、本の内容も玉石混交と言える状態にあります。

よく言えばとても簡単に、
悪く言えば姑息的にノウハウを提示しているビジネス書を
何の疑問も持たずに読んで鵜呑みにしたり、
あるいは、周りが読んでいるから、という理由だけでヒット作を買って読んで
その時だけ「嫌いになる勇気ってのは〜」とかぶれてみたり、

私たちの読み方は、必ずしも正しい形になっていないのかも知れません。

 

さらに言えば、
その読み方は実は子供の頃から学校の国語の授業で植え付けられているのでは?という気さえします。

・読む作品はクラス全員同じ(中には日本中で同じ、というものもある)
・読んで考えるべきこと(つまりは国語のテストにおける正解)も同じでなければならない

こう言った環境で長年を過ごせば、
「簡単に答えが書いてある本」「周りも読んでいる本」に
飛びつきたくなるのも無理ないような気がします。

なお、厳密に言えば、国語の授業で学んでいることは、
筆者の考えや登場人物の気持ちを「どこから読み取るか」という方法であり、
いわば「考えるべきこと」の一段手前の技術です。
ゆえ、国語の授業を受けたら一様に考える力が失われる・・・と必ずしも思いません。

ただ、こう言った授業の実態に、
日本人にとても親しみのある「協調性」というスパイスが加わることで、
「自分が考えること」よりも「先生がそう言っているんだから」「あの子もそう思っているんだから」
と言った発想が先に立つ人が育てられている、というのは一つの仮説になりうると思います。

 

ぐうぜん、並走するように読んでいる「思考の整理学」の冒頭に
「学校はグライダー人間を育てる」という趣旨のことが書いてありました。

グライダー人間とは、
高いところに運んでもらえればそこから滑空はできるが、
自分で飛ぶ力を持たない人間・・・つまり自分で何かを考え出したり
することができない人間のことを指すものです。

 

ショウペンハウエルの著作は19世紀初頭、
そして思考の整理学は20世紀の後半に書かれたものですが、
そのどちらもが今、この瞬間の社会に、なんら鋭さを失わない形で
メッセージを発しているということは本当に驚きです。

 

さて、冒頭で書いた通り、僕はまだこの本を読み終えていません。

というわけで、今日は「読書」という切り口で感想を書いてみましたが、
明日は「2ちゃんねる」という切り口で続きを書いてみます。