2chや5chなどの匿名性の弊害は、ずっと前から指摘されてました〜ショウペンハウエル「読書について他二編」を読んでいる途中で思ったこと②

前回に引き続き、この本を読みながら考えたことを書き留めておきたいと思います。

ショウペンハウエル「読書について 他二編」

この本に収録されているうちの「著作と文体」では、こんな文章が書かれています。

ドイツでは、出版言論の自由は最近かちとられたばかりであるが、たちまち破廉恥きわまりないほど濫用されるようになった。だが少なくとも、匿名、偽名は全て厳禁という手段によって、この自由に制限を加えるべきであろう。我々の言葉を広範囲に伝達する印刷というメガフォンによって、公衆に呼びかける者ならばだれでも、少なくともひとかけらはそなえているはずの名誉心に訴えて、自分の発言に責任を負わせること、また名誉心のひとかけらもない者に対しては、その名前だけでその発言を無効にすることが、この自由制限の目的である。

この文章が書かれるに至ったあらすじを簡単に整理すると、以下のようなものです。

・世の中には、誤った主義主張、誤った方法、手法が流行し、迎えられる。頭のよくない連中によって。
・こういった風潮に対応しうるのが「評論雑誌」なのだが、そのためには評論雑誌は清廉潔白でなければならない。
・ところが、残念ながら評論雑誌のほとんどは文筆家の鼻薬を嗅がされている。
・なぜこんな不誠実が文学業界に蔓延しているかというと、彼らが匿名で発言できるからだ。

 

この記事のタイトルに「2chや5ch」と書きましたが、
実は2世紀前の世界でも、匿名の書き込みによる無遠慮(かつ無知)な批判は存在しており、
そしてその批判が世論を型作る・・・という風潮がどうやらあった、ということでもあるようです。

それでも「評論雑誌」は記者やジャーナリストと呼ばれる人だけが書く世界でしたが、
今、インターネットで世界中の人が繋がり、自由に発言できるようになったことで、
私たちの世界は「誰でも匿名で名指しの批判ができる」という状態にあります。

 

それを、ある種の自浄作用だと捉える人もいるでしょう。
文春砲と呼ばれるようなスクープが、世間のどこそこでおきている不祥事を指摘し、
それに皆が匿名で群がり、不祥事の当事者を社会的に追放していく。

そういったサイクルを、2017年は嫌という程目の当たりにしてきました。

確かに不祥事の当事者は何らかの形で責を負うべきものでしょうし、
このような「怖い世の中」になったことが社会を浄化していく要素になるという考えも
ありえない訳ではないだろうと思います。

しかしその一方で、
私たちはそういった不祥事にばかり気を取られ、
真に意味のある情報やニュースに辿り着けずにいる、
そういう側面も少なからずあると思います。

匿名性に異論を唱えても、もはや社会を変えることは容易ではないのでしょう。

だとしたら私たちにできることは、
匿名性が存在することに起因するバイアスを認識して、それを極力取り除きながら
インプットをし、アウトプットをする、ということなのだろうと思います。

少なくとも、自分は匿名の立場で何かを批判することは
自分に対して厳しく禁じようと改めて思いました。

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